【1954年】
12月 和歌山県新宮市に生まれる
【1969年】
中学三年フォークのバンド「ストークス」を結成 ★1
【1970年】
高校の頃、ひとりでライブ活動などをしていた(16歳)★2
またこの頃すでに労音の会報にインタビュー記事を書き、
音楽評論家としての片鱗をみせている★3
【1973年】
アルバムメーカーのデザイン部に就職するが、
ストレスから胃潰瘍に。3か月で退社する(18歳)★4
退社後は大阪の親戚の家に居候して浪人生活に。
そば屋から観光バス添乗員、家電製品の箱詰めなどいろいろなアルバイトをして30万円ほどためて上京。
美大受験のため、美術専門の予備校に通う。
【1974年】
武蔵野美術大学油絵科に入学(19歳)★5
1年の終わり頃からスタジオシップ(劇画製作者・小池一夫のプロダクション)
でバイトを始める。マネージャーの仕事ということだったが、
内容はほとんどマンガアシスタント。★6
『おれは直角』(小山ゆう)のベタなど手伝う。
その後、小山ゆう氏が独立したおり、
アシスタントが見つからないので、手伝ったことも。
特に『おれは直角』のラスト2回は背景をすべて描いている。
【1975年】
8月。スタジオシップ山本又一郎氏
(後、キティフィルムのプロデューサー)に連れられてロス旅行。★7
多賀英典氏、後藤由多加氏、西條秀樹、井上陽水、出門英が同行。
それぞれバラバラの仕事での渡米だった。
(例えば陽水は『二色の独楽』のレコーディングだった)
ロスではイーグルス、カーラ・ボノフ、ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタット、
ランディー・ニューマンなどのライブに行く。★8
帰国後、「GORO」にアメリカ音楽状況について執筆。
これをきっかけにして他の雑誌からも次々と依頼が舞い込む。
例えば、「週刊ポスト」のレコード評などを書いた。★9
スタジオシップでの最後の仕事は、小池一夫のゴーストで作詞(あべ静江のアルバムの作詞)
これが作詞家としての最初の仕事になった。
一方、美大は2年で除籍に。
いよいよ本格的に「音楽業界」へ★10
【1976年】
友人の紹介で新譜ジャーナルに入社(22歳)
週刊FMなどの他社の雑誌には「そらべふくろう」
(命名はシンガーソングライターのイルカさん)のペンネームで執筆していた。★11
このころ、あるコンテストの審査員をする。
当時高校生だった西本明(のち佐野元春with THE HARETLANDに参加)と江沢宏明
(のち浜田省吾のバンド「THE FUSE」の2人よるバンド「しの」が出場。
これが縁で「舶来歌謡音楽団」を結成。
「舶来歌謡音楽団」ヤマハのポピュラーソングコンテストに出場。
メンバーは下村誠(G)西本明(Piano)江沢宏明(B)泉水俊郎(Dr)。
結果は「最優秀ヴォーカル賞」
「ももちゃんばんど」を結成。
メンバーは、しののめれい(Vo) そらべふくろう=下村誠(Vo.G.Per) 西本明(アコーディオン)
江沢宏明(B)あみのまこと(マンドリン)★12
【1977年】
「ももちゃんばんど」、ミニアルバム『ももちゃんばんど』発売★13
夏 新譜ジャーナル・アマチュア紹介ページを埋めるべく、
大妻女子大学Fork Song Clubの志賀高原夏合宿を訪問。
以後、長年にわたり音楽ブレインとしてなくてはならない
存在となり三番町の大妻に通うようになる。
【1979年】
ボブ・マーリィに出会う。
11月26日 「LIVE 歌が空を焦がす時」千葉セントラルプラザホール
出演は(良妻賢母+ワウワウ・ブラザーズ、オリジナル・ブレンド・カス・スペシャル、
チャールズ清水)オリジナル・ブレンド・カス・スペシャルは下村誠ボーカルで
「バビロンに食われるな!」「裸の心をさらけ出せ1」を演奏。
12月 新譜ジャーナルをクビに(25歳)★14
【1980年】
やっちゃ場(築地市場の八百屋セクション=やおいちば)にてバイト開始
夏、やっちゃ場主催新宿ロフトでライブを開催する。
このイベントに参加するため、「下村誠バンド」が結成される。★15
「下村誠バンド」メンバーは戸塚宏(G)西本明(Key)横川美穂(B)永野浩子(Dr)★16
10月「下村誠バンド」を母胎に、当時横川美穂、永野浩子とともにバンド
「良妻賢母」で活動していた伊藤あゆき(G)、コーラス隊にしえんを加え、
「ラスタマンバイブレーションズ」を結成。レコーディングを行う。
12月、ナッティレコード設立、「ラスタマンバイブレーションズ」による第一弾シングルを発売。
いわゆる両A面でREGGAE SIDE『裸の心をさらけだせ!』SKA SIDE「バビロンに食われるな」
曲のみカバー(ボブ・ディラン、ジミー・クリフ)詞は下村誠にオリジナル。
「この時思ったことをこのメロディに強引に乗せた」という。
【1981年】
1月『JOHNに捧げる愛の歌』発表。
JOHN LENNON SONGS A①「人々よパワーを持て!(POWER TO PEOPLE)」②愛の歌(LOVE)
③すべてがなるがままさ(LET IT BE)
B①「考えてみてごらん(IMAGINE)」②「争いはもうやめよう!(HAPPYCRISTMAS)」
前年のレノン暗殺事件からわずか1ヶ月で発表された追悼アルバム。下村誠はプロデュース、
そして全曲の訳詩を担当した。
12月8日、ジョン・レノン追悼ライブ(吉祥寺「のろ」)
【1982年】
3月 佐野元春の『ロックンロール・ナイト』『ハッピーマン』のレコーディングに
コーラスで参加。
7月「BANANA BLUE」結成(以下バナナ・ブルーと表記)
7月4日 宇都宮 一宮公民館でライブを行う。(出演、バナナブルー、コールド・スウェット)
9月「バナナブルー」デモテープを録音。この音源は未発表。
メンバーは下村(Vo)横川美穂(B)伊藤あゆき(G)しえん(Dr)宮谷真人(ペダルスチール)
西本明(Key)まもる(Cho)里村美和(Per)
9月 佐野元春のシングルレコード『So Young』にコーラスとして参加。
この頃より、バナナブルーに吉田健吾がパーカッションとして参加。
10月 吉祥寺「のろ」にて「パンキーレゲエパーティ」開催。
バナナブルーの他、佐野元春with THE HEARTLAND、伊藤銀次が出演。
11月 バナナブルーに柴田光久(=佐野元春with THE HAERTLANDの「ダディ柴田」サックス)参加。
12月8日 再びジョン・レノン追悼ライブ。(吉祥寺「のろ」)
12月31日 バナナブルーライブ (原宿サンビスタ)
【1983年】
2月20日 バナナブルー ライブ (原宿サンビスタ)
6月17日「バナナブルー」初のワンマンライブ(日仏会館) Guest友部正人
シングル『GREEN RED GOLD(俺たちの誓い)』(NATTY-1002)発売。
しえんが脱退。
7月21日 オムニバスアルバム『レゲエ・クラッシュ』発売。
クール・ランニングス、バナナブルーなど、当時のレゲェバンドを集めたオムニバス盤
「風が唄うメロディ」収録(リバスターレコード)
8月 船橋西武屋上ロックイベント。西本明、柴田光久が脱退。
11月 ライブ・アルバム『BANANA BLUE LIVE!』(NATTY-1003)発売。
11月 関西ツアー 京都磔磔(11月24日)他
関西ツアーより井上徳子(Key)参加。
【1984年】
2月「バナナブルー」解散&「ナチュラルスピリッツ」結成ライブ。
第1部「バナナブルー」第2部「ナチュラルスピリッツ」で、1部と2部の間に音楽もスタイルもファッションも髪型もがらっと変えてしまうという演出がなされた。★17
「ナチュラルスピリッツ」メンバーは「バナナブルー」最終メンバーと同じで、
下村誠(Vo.G)横川美穂(B)伊藤あゆき(G)井上徳子(Key)吉田健吾(Dr)まもる(Cho)
5月 ミニアルバム『ナチュラルスピリッツ/バナナブルー』(NATTY RECORDS GRAM-1001)発売。
7月 ナチュラルスピリッツ関西ツアー。★18
【1985年】
5月 佐野元春のラジオ番組『サウンドストリート』(NHK-FM)にゲスト出演。
ナチュラルスピリッツの「プレイヤー~世紀末」がオンエアー。
アーティスト下村誠の名を広める最初のきっかけとなる。
5月 ナチュラルスピリッツ解散ライブ「ラストジャミング」。(下北沢ロフト)★19
7月 ライブアルバム『ラストジャミング』発売
【1986年】
7月 単行本『路上のイノセンス EARLY TIMES OF MOTIHARU SANO』(JICC出版)が完成。
執筆には、ほぼ2年を費やした。
発売記念パーティを開催(御茶ノ水ブーチーズ)。
詩人の諏訪優氏の朗読、下村誠、吉田健吾、宮谷真人の3人(翌月スナフキンを結成)による演奏を行った。「ハートランド」のメンバーも参加し、古田たかし、阿部吉剛の歌も飛び出した。
8月31日 ライブ「ムーミン谷の夏祭り」
下村、吉田健吾、宮谷真人の3人で「スナフキン」結成。★20
ゲストに友部正人、たま。
秋。佐野元春のロンドンレコーディングに同行。
「スナフキン」(第2次)結成。メンバーは下村(Vo.G)吉田健吾(Dr)横川美穂(B)
阿部吉剛(Piano 佐野元春with THE HEARTLANDのスウィートベイビー阿部ちゃん)。
7月 単行本『エコーズ タッグ・オブ・ストリート』(JICC出版)を発行。
9月 下北沢ロフトでライブ「BEAT GENERATION“88」。出演はスナフキンの他、
友部正人、マーシー、篠原太郎、OKI( ストリートビーツ)
そして飛び入りでヒロト(ザ・ブルーハーツ)が演奏。
12月 東京経済大学にてイベント『明日のためにその1』開催。
ドキュメンタリー映画上映、シンポジウム、ポエトリー・リーディング、
ライブからなる7時間におよぶ大イベント。出演は現代詞の諏訪優氏、スナフキン、友部正人、川村かおり、ザ・ストリートビーツなど。企画は当時東経大4年だった村田博。
【1989年】
2月 スナフキンを改め、「エレクトリック・スナフキン」結成。
メンバーは下村(Vo.G)吉田健吾(Dr)三輪美穂(B)井上徳子(Key)宮谷真人(P-S-G)
夏。アメリカへ。「チキン・スキン・USA」の旅。
【1990年】
12月30日「LAST ROCK SHOW」
出演はSHAKES、篠原太郎withB-JACKS、RIP VAN WINK、
エレクトリック・スナフキン、藤森かつお、ビリケン、THE VANILA、マンドリン・ブラザーズ
吉田健吾が脱退。
【1991年】
「下村誠with ザ・スナフキン」を結成。
下村(Vo.G)三輪美穂(B)井上徳子(Key)五木田紀子(Dr)宮谷真人(P-S-G)山崎哲也(Par)。
2月23日『BOUND FOR GLORY Vol.4』MANDA-LA2
出演(河口修二、片桐麻美、シューヘー、下村誠withザ・スナフキン、三宅伸治、マンドリンブラザーズ、児島鉄兵、宮沢和史&小林孝至、友部正人with三宅伸治)
3月 下村誠ソロCDシングル『Bird』レコーディング。
川村かおり、篠原太郎、ダディ柴田、伊藤浩樹(元エコーズ)等、
多彩なゲストを迎えてのレコーディングとなる。
5月26日 下村誠withザ・スナフキンLIVE 下北沢ロフト
6月22日 ライブイベント『Bound For Glory』吉祥寺マンダラⅡ
出演(高田渡、山木康世、シバ、片桐麻美、中川イサト、他)
8月1日『Bird』(NTTY-1006)発売。
10月19日 ライブイベント『Bound For Glory』吉祥寺マンダラⅡ
出演(金森幸介、下村誠、リクオ、篠原太郎、シューヘー、マンドリンブラザーズ、児島鉄平、コウダツネヒロ)
12月20日 長谷川集平とのユニット「こじこじ音楽団」によるCDシングル
『猫ヒゲDance』(NATTY- 1007)発売。★21
【1992年】
ライブイベント[ライ麦畑の歌工場」(~93)
『バナナブルー・ベスト』-SPECIAL ANTHOLOGY1982~1985-(NATTY-1008)発売。
夏『シューヘー』(NATTY-1009)発売。
児島鉄兵のアルバム『流転1981-1991』発売。下村誠&児島鉄兵プロデュース作品。
発売記念ライブ参加 新潟
音楽隊は(G.橋本はじめ、Key.井上徳子、Dr.Per. 山崎哲也、Dr.五木田紀子、B.三輪美穂、G.Cho.下村誠)
10月25日 下村誠with ザ・スナフキン5周年記念ライブ 下北沢ロフト
12月30日 アンプラウド・ギグスペシャル’92「ギターをとって弦を張れ」
出演は、山木倶楽部スペシャルユニット(山木康世、夢和&ペータ)、片桐麻美、
三輪ちゃんと愉快な仲間たち、下村誠&河口修二、南澤時正、篠原太郎、幸田恒大、田中一郎etc.)
【1993年】
「下村誠withザ・スナフキン」に河口修二(G)が加入。
3月20日「こじこじ音楽団」の第2弾シングル『スウィート、スウィート、ポテト』(NATTY-1010)発売。
7月「下村誠withザ・スナフキン」による初のフル・アルバム
『ホリーバーバリアンズ』(NATTY-1011)発売。(西本明、友部正人、川村かおり、宮沢和史、藤井一彦、松田文、橋本はじめ、長谷川集平、ペータ、佐久間順平...多彩なゲストを迎えた11曲入り)
7月18日『ホリーバーバリアンズ』発売記念ライブ MANDALA-2
8月28日 こじこじ音楽団 LIVE1993 MANDALA-2 (ライブ録音、この音源は未発表)
ライブ・ユニット「バナナ・スピリッツ」」
【1994年】
8月 ライブ「ムーミン谷の夏祭り」(大塚・萬スタジオ)
ライブユニット「バナナ・スピリッツ」(#2)
10月25日 バナナスピリッツライブ 下北沢ロフト
(下村誠、岩井英吉、山崎哲也、河口修二、あっちゃん)Guest(幸田恒大、ごきげんヤッチ)
ライブユニット「アイタル・ミーティング」
当初、下村誠(Vo.G)吉田健吾(ジャンベ・カリンバ)の2人のジョイントライブというニュアンス
であったが後に尾成彩(Vo,Sax)紅葉谷佳代(Vo)を加え「持続するバンド」としての表明がなされた。
【1995年】
3月「下村誠withザ・スナフキン」活動再開。尾成彩、紅葉谷佳代が加入。
5月28日「The Snufkin VS The BRICK’S TONE LIVE」下北沢ロフト
5月「アイタル・ミーティング・ツアーVOL.1」と題して飯能市から都心、そして関西へ。
特に阪神大震災で被害の激しかった神戸灘区ではストリートライブを行う。
10月 甲府在住のアーティスト坂田ひさしのアルバム『青の地平線』をプロデュース。
『FLOWER CHILD』Kayo Momijiya(NATTY-1014)発売。下村誠プロデュース作品
『LIVE1995』アイタルミーティング(NATTY-1015)発売。
【1996年】
『SPIRITUAL MAP-心の地図―』梶田イフ(NATTY-1016)発売。下村誠プロデュース作品。
『Your Blue Heaven―Dedicated to Tawashi-』(NATTY-1018)発売。
『god’s hand』wild tears』(NATTY-1019)発売。下村誠プロデュース作品。
【1997年】
『MOOI』Kayo Momijiya(NATTY-1021)発売。下村誠プロデュース作品
【1998年】
『地球,風,太陽』アイタル・ミーティング(NATTY-1023)発売
『Angel Mind』Erina Jinnai (NATTY-1024)発売 下村誠プロデュース作品
【1999年】
『BOUND FOR GLORY』下村誠(NATTY-1027)発売。
【2000年】
『SACRED SOUL』下村誠(NATTY-1028) 発売
『翼は傷つかない』下村誠(NATTY-1029)発売
【2001年】
『ブルー・ヴァージンズ』ラリー(NATTY-1030)発売。下村誠プロデュース作品。
『㋐の唄』(NATTY-1031)発売 中ムラサトコー&下村誠プロデュース作品
【2002年】
『風待ち』(NATTY-1032)発売
【2003年】
『愛の花』吉本有里(NATTY-1033)発売。下村誠プロデュース作品
『マザー・アース・ソングス』(NATTY-1034) 発売。岡野弘幹(天空オーケストラ)が全面協力。
(参加は下村誠、苫米地サトロ、海老原美恵、梶田イフ、吉本有里、他)
【2004年】
長野へ移住
【2006年】
12月6日 夜 長野にて火事のため死去(享年51歳)
〈1995年発行の雑誌「GU」アーティスト下村誠 を参考に作成〉